赤青二大政党制

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赤青二大政党制とは、〈なすび王の国〉における政治体制の一つ。なす暦42年の第一回なすび議会総選挙の結果成立し、95年の〈第三憲政〉成立までおよそ53年間続いた。資本家階級を代表する赤なす党と、労働者階級を代表する青なす党が(一部の例外を除いて)二大政党として交互に総理大臣を輩出し、選挙による政権交代を通じておよそ半世紀に及ぶ安定的な政治体制を実現した。この間、赤なす・青なす両党が議会の過半数を占めた時期はごく僅かであり、大半の時期を中・小規模政党との連立によって政権を組織したことから厳密な意味での二大政党制が実現したわけではなかったが、赤なす・青なす両党が一貫して政局の中心に位置したことからこの名で呼ばれている。

前史

〈なすび王の国〉では、〈第一憲法〉の成立までは国王と貴族による専制政治が敷かれていたが、なす暦30年代に入るとそうした特権階級による権力の独占に対抗するための政治結社(政党)が結成され始めた。同国最初の政党である青なす同盟(なす暦30年結成。のち、青なす党に改称)[1]は社会的身分の低い民族の政治参画実現というリベラルな主張を旗印に掲げて勢力を広げ、なす暦31年の〈大たまごの間の政変〉で政府内部の穏健派[2]が追放されると、国内では反専制政治を掲げる運動が勃興した。青なす党は労働者階級である青なすびを中心にした組織であったため、「青なす党は弱者の味方」というイメージが次第に国民に浸透し、当時の国王・なすごん4世が率いる政府も青なす党の勢力拡大を無視できない状況になっていった。

そこで、政府はなす暦36年に内閣制度創設を柱とする大規模な行政改革を断行して反政府運動を緩和させることを試みた。しかし、この改革は初代総理大臣に貴族階級である紫なすびのなすでぃんが任命されるなど、既存の専制政治体制の表紙だけを変えたような不十分なものであったために国民からは評価されず、返ってより抜本的な改革を目指すという反政府運動の熱気を高める結果に終わってしまった。さらに、その紫なすびたちの間でも権力を巡った争いが激化して総理大臣の交代が相次ぎ、政権はさらに不安定化してしまった。この過程で、政府の主導権を失いつつあったなすごん4世は緑なすびの孤立化を防ぐ目的から王権の制限を柱とする立法(36年行政権法や37年立法手続法)の成立を黙認するにまで追い込まれ、ついで38年には国王の専制政治を廃止することを明確にした〈第一憲法〉を制定し、政治体制は専制君主制から立憲君主制へと移行した。だが、こうした改革を経ても青なす党を筆頭とする反政府勢力の運動は鎮静化する気配を見せず、国王を中心とする政府を取り巻く状況は悪化の一途をたどった。

40年8月、なすごん4世が崩御して新たになすごん5世が即位すると、状況が一変する。政権の維持すら危うい状況に陥ったと考えた新王は、比較的国王・貴族階級と関係が深い資本家階級の民族・赤なすびのリーダーであるなすじゅうろうを総理大臣に指名し、政党勢力との妥協を模索した。王族の緑なすび、貴族の紫なすび以外の民族(品種)出身者が政府の長に就くことはこれがはじめてであった。これはなすじゅうろうが内閣制度創設の直前に赤なすびたちを糾合して結成した赤なす党は、青なす党とは対照的に、国王・貴族との調和を重視した保守的な政治を掲げていたためである。後世の歴史から見ると、このことは結果的に政治の実権が緑・紫両なすびたちから赤・青両なすびへの移る画期となる出来事であり、 ここに、保守主義を掲げる赤なす党と、リベラル主義を掲げる青なす党という2つの政党が対立する構図が誕生することとなった。内閣制度草創期こそ、その他の政党も一定の勢力を持って存在していたが、まもなく国内では保守派は赤なす党に、リベラル派は青なす党にそれぞれ与して対抗するようになり、赤青二大政党制へと繋がる保守・リベラルの勢力図は、なす暦42年ごろまでにはほぼ完成していた。

赤なす党政権は、なすごん5世の意向もあって普通選挙によって選出された議員による立法府の創設へと動き出す。この動きは青なす党をはじめとする在野の政党からも総じて好意的に受け止められたため、改革は急速に進んだ。この改革は41年に立憲君主制・三権分立・民族平等を掲げた〈第二憲法〉の発布によって結実する。〈第二憲法〉は〈第一憲法〉と比べて国家統治についての原理原則や手続きを定めた本格的な硬性憲法であり、議会政治の創設をはじめとして従前の〈なすび王の国〉の国政から根本的な変更が行われたという点において、同国史上の画期となる出来事となった。[3]

42年に入ると、新憲法の規定に基づいて単純小選挙区制による議会の普通選挙が実施され、〈なすび王の国〉ではじめて民間人による政治参画が実現する。この選挙で主役となったのが政党であった。主要政党には赤なす党・青なす党のほか、とまと党・だいこん党・葉もの同盟などが存在したが、事実上赤青両なす党の一騎打ちという構図で選挙戦は進んだ。赤なす党は憲法制定などの実績をアピールして一定の支持を集めたが、世論は「弱者の味方」を掲げる青なす党への支持が最高潮に達しており[4]、結果、第1回なすび議会総選挙で青なす党は議席の70%を独占する地滑り的大勝をおさめた。選挙後に開かれた第1期なすび議会において、議会は憲法の規定に従って総理大臣の指名選挙を行い、青なす党のリーダーであるなすごんどうを新総理大臣に選出した。赤なす党から青なす党へと、選挙の結果による法的な政権移譲が行われ、〈なすび王の国〉では専制政治の時代から本格的な政党政治の時代へと名実ともに移行した。これを以て、赤青二大政党制の始期とされている。

第一期青なす党政権(42年~58年)

第一期青なす党政権は、42年のなすごんどう内閣の成立から58年の第二次ビッグ・なす(赤なす党党首)内閣の成立までの約16年間続いた(54年6月から同年11月までの約5ヶ月間を除く[5])。この期間の総理大臣は以下の3名、内閣は以下の4つである。

総理大臣 期間 与党
なすごんどう 42.1~42.9 青なす党
なすとる(第一次) 42.9~54.6 青なす党
ビッグ・なす 54.6~54.11 赤なす党・もろこし党・とまと党
なすとる(第二次) 54.11~58.2 青なす党・だいこん党

表の通り、この期間のほぼすべてで政権を率いたのはなすとるである。

42年1月、初の総選挙の結果総理大臣に就任したなすごんどうは「憲法の精神の涵養」と「下級身分のための政治」を唱えて、リベラル政治の定着を最優先課題に掲げた。なすごんどう内閣は初の議会による予算編成を無難に終えると、「国民のための政治に関するロードマップ」を発表して新内閣が進める政策の具体的な計画を示して国民に新政権が目指す政治体制の骨格を示した。しかし、同年9月になすごんどうは病に倒れると「政治的良心に従って」潔く引退する意向を示し、後継者に青なす党幹事長のなすとるを指名して退陣した。

なすごんどう政権を引き継いだなすとる政権(第一次)は、前政権が示したロードマップの踏襲を明言して諸改革を進めていった。第一次なすとる政権の実績の中で特に重要なものは、国王および王室に関する法整備・政党内閣政治に関する法整備・身分制度改革・社会保障改革の4点[6]である。これらの政策について、政治学者のなすですは「一部の特権階級による権力乱用の阻止を法制化した」と述べ、赤青二大政党制を軸とする〈第二憲政〉の体制が保守主義一辺倒になることを防いだと評価している。

一連のリベラル政策は概ね国民から好意的に受け止められ、46年および50年の総選挙では青なす党が安定多数の議席を確保した。「弱者の味方」という青なす党の旗印を体現したなすとるへの支持率は、50年代初頭までは安定して推移していた。しかし、52年に中道保守路線を唱えるビッグ・なすが赤なす党党首に就任すると、青なす党と赤なす党の支持率は拮抗するようになる[7]。この結果、54年の総選挙では青なす党が大方の予想を覆して獲得議席を大きく減らし、議会の比較第一党は維持しながらも過半数を失う敗北を喫した。

選挙後、なすとるは比較第一党の維持を根拠にして政権の維持に意欲を見せるが、政権奪還の執念に燃える赤なす党は第三党のもろこし党・第四党のとまと党とともに連立政権樹立のための合意を電撃的に結んで議会の過半数を確保し、なすとる政権を退陣へと追い込んだ。当時の社会通念では、比較第一党が政権をとれないということは想定されておらず、赤なす党のこうした動きは政界のみならず国民世論の間でも波紋を広げた。ビッグ・なすは54年6月に第一次政権を開くが、この政権は急造の連立合意が機能せず迷走し[8]、結果的には同年10月にとまと党が連立を離脱したことで政権は議会の過半数を喪失してしまった。一方、青なす党は下野後に労働者階級を支持基盤とする第五党のだいこん党と接近し、両党はとまと党の連立離脱の翌日に政権奪還を想定した政策合意文書に署名した。翌11月、ビッグ・なすが混乱の責を負って退陣すると、後任には議会の過半数の支持を回復していたなすとるが再登板する形で就任し、第二次なすとる政権が発足した。

青なす党が単独で議会の過半数を握っていた第一次政権と違い、第二次なすとる政権は他党との連立によって政権を開いたため、なすとるは難しい政権運営を強いられた。青なす党はだいこん党との調整の中で主要な政策の修正を余儀なくされ、中でも56年の内務省改革法案廃案騒動[9]は、なすとるの指導力が決定的に失われた象徴的な事件となった。この一件を契機として、青なす党内ではなすとるの党首辞任を求める〈中間党の乱〉が発生したが、なすとるは求心力回復の切り札として議会解散で反なすとるの動きに応じた。しかし、総選挙では青なす・だいこん両与党は赤なす党を中心とする保守系三党[10]に敗れて過半数を喪失し、なすとる政権は総辞職に追い込まれる。後継には赤なす党のビッグ・なす[11]が再度総理大臣に指名されて第二次ビッグ・なす政権を開き、約16年に及ぶ青なす党を中心とする政権の時代は終わりを迎えた。

第一期赤なす政権期(58年~75年)

第二次ビッグ・なす政権が成立した58年2月から青なす党が再び政権を奪還する75年9月まで続いた赤なす党による政権を、第一次赤なす政権と呼ぶ。この期間の総理大臣と政権は、以下の通りである。

総理大臣 期間 与党
ビッグ・なす(第二次) 58.2~67.4 赤なす党・とまと党・にんじん党
なすぽーん 67.4~70.1 赤なす党・とまと党・にんじん党
きよなす(第一次) 70.1~75.9 赤なす党・とまと党・にんじん党

第二次赤なす党政権期のキーワードは、経済大国路線と「外政の季節」である。いずれも、内政の体制構築を優先した第一次青なす党政権に対応した言葉であり、赤なす党の支持基盤である資本家階級を中心とする経済界の意向を受けての方針であった。経済大国路線は資本家階級重視の政策であり、経済発展を基盤として国力を増強しようという考え方である。一方「外政の季節」とは、ビッグ・なすが二度目の総理大臣就任演説で発言した「青なす政権の時代は内政の季節であったが、われわれの時代は外政の季節となるであろう」という言葉が由来である。「外政の季節」は、60年代までは貿易立国路線を指す言葉であったが、70年代に入ると軍備増強路線を指す言葉へと意味が変容し、肯定・否定を問わず第一次赤なす党政権を評する言葉としてさまざまな文脈で使用される言葉となった。総じて、経済・軍事両面における第一次赤なす政権の対外関係政策を表す言葉である。

第一期赤なす政権期最初の政権となった第二次ビッグ・なす政権の最大の功績は、のちにビッグ・なす法制と呼ばれる産業と貿易に関する条約・法律群を制定したことである。ビッグ・なす法制を構成する特に主要な条約・法律は、59年指定重要産業法・なすび海沿岸貿易条約・64年海運法の3つである。59年指定重要産業法では、〈なすび王の国〉の農業偏重主義という産業構造からの脱却を図って、紡績業や重工業といった新興の国内産業を国が全面的に支援する体制を整えるための法律である。この法律によって、〈なすび王の国〉の西海岸では工場の建設ラッシュが起こり、東部や北部などの伝統的な農業地帯を温存しながら多様な産業を等しく発展させる下地が形成された。つづくなすび海沿岸貿易条約は、そうした西海岸地帯の発展に伴って生じた余剰生産物を他国に輸出する必要性が高まったために結ばれた条約である。この条約では、〈岩山の王国〉を筆頭とするなすび海沿岸地域の国々との間で相互に関税を優遇する取り決めがなされた。この恩恵を最も受けたのは〈なすび王の国〉や〈岩山の王国〉などの大国のみであったものの、全体としては同条約が結ばれた地域は60年代を通して〈なすび海特需〉と呼ばれる好景気に沸き、〈なすび王の国〉がそれを牽引する形でさらに地域全体が好景気になるという好循環が生まれた。64年海運法はそのような新時代の貿易体制を支えるための法律であり、海運業に関する各種規制を緩和する措置をとることでよりなすび海を通した貿易を促進させる効果を発揮した。以上のような経済政策によって、〈なすび王の国〉は高度成長と呼ばれる空前の好景気に沸いた。ビッグ・なす政権は青なす党の復権を阻止するための対策として63年労働者権利法をはじめとする社会保障法制の整備にも注力し、これが功を奏したことで総選挙に連戦連勝を重ね、ついに本格的な危機に陥ることなく67年4月まで約9年もの間政権を維持することに成功した。

ビッグ・なすが年齢を理由にして総理大臣を引退すると、あとを継いだのはビッグ・なす政権で一貫して内務大臣を務めていたなすぽーんであった。なすぽーんはビッグ・なすの方針を引き継いで産業庁の設置や鉄道利権再編などの難しい政策を無難に成し遂げる仕事人ぶりを発揮して、安定政権の構築の足場固めを着実にこなした。しかし、69年に発生した〈かっぱ王国革命〉への対応問題を巡って赤なす党タカ派の領袖であるきよなすに党内の主導権を奪われる政治的敗北を喫したことで状況が一変し、またこのことが直接の原因となって70年の総選挙で赤なす党の議席を減らしてしまった責任を問われ、なすぽーん政権はわずか3年弱で崩壊してしまった。

後継の総理大臣に就任したのはきよなすであった。きよなすは〈かっぱ王国革命〉を機に王制打倒の革命の波がなすび半島へもたらされることを避けるべく、大規模な軍備拡張路線を唱えた。この路線は〈なすび王の国〉の世論を真っ二つに分ける大論争を呼び、経軍論争とも呼ばれる「経済重視対軍拡重視」の路線対立を引き起こした。だが、こうした世論にもかかわらずきよなす率いる赤なす党政権は72年の総選挙で安定多数を確保する大勝をおさめ、この勝利を根拠として軍拡路線を推し進める方針を採った。きよなす政権は、へた山脈防衛大綱などをまとめた72年安全保障法の制定を皮切りにして軍事費の増額やそれに伴う軍制改革を強行し、その集大成として74年には〈かっぱ王国〉への出兵に踏み切った。しかし、同年に青なす党の党首に民生重視を掲げるなすろうが就任すると世論の風向きが大きく変わる。なすろうは福祉や家計補助などを柱とする生活密着型の政策を提案したことで支持を集め、さらにちょうどこの時期から軍事費の増額に伴って減額された経済対策費用の減額の悪影響が国民の家計に出はじめたこともあり、国民世論は一挙に青なす党支持に傾いていった。そして、75年に入ると赤なす党の連立与党であるとまと党・にんじん党の党首が相次いで〈かっぱ王国〉出兵反対派の議員に交代したことできよなす政権は行き詰まり、結果的に同年の総選挙で青なす党を中心とする勢力が過半数を制したことで赤なす党政権は約17年間維持した政権の座を失うこととなった。

第二期青なす党政権(75年~80年)

なすろうが率いる青なす党が政権を奪還した75年9月から、赤なす党のアリナス政権が成立する80年7月まで続いた青なす党を中心とする政権を、第二期青なす党政権と呼ぶ。この期間の総理大臣および内閣は以下の通り。

総理大臣 期間 与党
なすろう 75.9~79.12 青なす党・だいこん党・葉もの同盟
なす・ケイ 79.12~80.7 青なす党・だいこん党・葉もの同盟

第二期青なす党政権は、「民生重視」のスローガンに端的に象徴される社会保障政策の推進を政権の最大の特徴とする。前政権との対比を重視し、軍制のような国家規模の壮大な政治テーマから国民の日々の生活という個々人に密接にかかわる政治テーマを取り上げたことで、主に労働者層を中心とする中・低所得者階級から支持を集めた。与党である青なす党・だいこん党・葉もの同盟の三党はそうした中・低所得者階級を支持基盤とする政党であることから、経済界などの資本家・地主階級を支持基盤とする赤なす党との相違点を強調して、「弱者の味方」[12]という政権のイメージづくりを徹底した。

75年に総理大臣に就任したなすろうは、医療・介護・教育の充実を政権の最大の目標として設定し、政権発足後の最初の2年間で75年複合保険法[13]・75年民生官庁再編法・76年教育基本法などの法律を矢継ぎ早に成立させていった。また、高度成長に伴うインフレーションの恩恵を受けられない低所得者層の保護政策として、高所得者と中・低所得者間の税負担のバランスを調整する76年税制調整法などは、上述の法律と合わせて概ね世論から好意的に受け止められた。一方で、一連の中・低所得者厚遇政策は赤なす党の支持基盤である資本家・地主層の強い危機感を呼び覚まし、77年には赤なす党の政権復帰を望む財界の実力者が出資者となって全国的な保守政治結社・全やさい保守政治連盟が結成された。保守派の結集は赤なす党にとって強力な追い風となり、国民世論の青なす党政権に対する支持率とは裏腹に、各地方自治体の選挙では赤なす党を中心とする勢力の勝利が相次ぐようになった。ここに、組織票に支えられる赤なす党勢力と国民世論に支えられる青なす党勢力という二大勢力の対立構造が明瞭となり、この構造が70年代後半以降の〈なすび王の国〉政治の軸となった。

79年に入ると、なすろうは総選挙のタイミングを探るようになったが、同年12月、なすろうは突如病に倒れて意識を失い、一命こそとりとめたものの総理大臣の職務継続は不可能と判断して退陣を表明した[14]。この突然生まれた権力の空白は青なす党政権を大きく動揺させた。後任の総理大臣には青なす党のナンバー2であったなす・ケイが就任したが、なす・ケイ政権は強力なリーダーの引退による青なす党政権のレームダック化に対して有効な対策を打つことができず、盤石に見えていた世論の支持も徐々に失っていった[15]。結局、同年7月の総選挙では強い組織票を固めた赤なす党が地滑り的大勝をおさめて政権は赤なす党のアリナスへと移った。

第二期赤なす党政権(80年~85年)

第二期赤なす党政権は、80年のアリナス政権発足から85年の政情不安(いわゆる85年政局)によって第二次きよなす政権が崩壊するまでの5年間存続した。この期間の総理大臣および内閣は以下の通り。

総理大臣 期間 与党
アリナス 80.7~81.10 赤なす党・とまと党
きよなす(第二次) 81.10~85.1 赤なす党・とまと党

この期間は、赤青二大政党制時代でも最も政党間の対立が緊迫した時期であり、政策よりも政局に多大なエネルギーが費やされることとなった。特に、80年12月の〈だいこん党事件〉と85年から始まる〈85年政局〉はそのハイライトである。結果的には、第二期赤なす党政権は後世の歴史から見て赤なす党の一党優位体制が固定化する端緒となる時代と評されることが多く、特に〈だいこん党事件〉を境として赤青二大政党制時代を前半と後半に分ける学説が主流とされている。

第二期赤なす党政権最初の総理大臣にはアリナスが就任したが、アリナスは赤なす党内における権力基盤が脆弱であったため、実際には元総理大臣・きよなすの一派が政権を指揮した。きよなすは厳格な保守政治を志向し、農家所得の保証をはじめとする社会保障政策を実施してリベラル層に一定の配慮こそ見せたが、実質的には資本家・地主階級を優遇する反リベラル政治を推し進めた。こうした中で、80年12月に〈だいこん党事件〉が発生した。〈だいこん党事件〉は第二期青なす党政権で連立与党を務めただいこん党の幹部が、赤なす党政権打倒のクーデターを計画していたことが発覚したスキャンダルに端を発し、最終的にはだいこん党本部が警察の捜索を受けた上で党幹部を含む多数の逮捕者を出して、だいこん党が解党に追い込まれた事件である。この事件の影響は大きく、まず世論のリベラル勢力支持率が大きく減少し、加えて青なす党はだいこん党という有力な友党を失ったことでその党勢を後退させた。これは、赤青二大政党制の歴史において赤なす党の優位が確定するきっかけとなり、時代の大きな転換点となる事件となった[16]

〈だいこん党事件〉によって赤なす党政権は政治基盤を強化することに成功した。さらに、81年10月にはアリナスが突如辞意を表明したことで政権が正式にきよなすへと移り、第二期赤なす党政権はきよなすを頂点とする強固なピラミッド型の政権構造を確立させた。この構造を背景にして、きよなす政権は82年組織法、83年警察庁設置法、84年集会制限法などの統制型社会を実現させるための法律を次々に成立させた。きよなす政権は、経済に対しても国家による介入を強める統制経済の方針をとったため、第二次きよなす政権による一連の政策を統制改革と呼ぶ。青なす党は、党の母体となっている青なすの民族を中心にして反政府デモを活発化させ赤なす党政権に対抗しようと試みたが、〈だいこん党事件〉の影響もあって他のやさい民族からの理解があまり得られず、存在感を示すには至れなかった。

しかし、きよなすによる強権的な政治は赤なす党政権の連立与党であったとまと党の離反を招いてしまう。具体的には84年9月のとまと党代表選挙において、行き過ぎた統制経済を諫める方針を唱えたトマーヌが当選し、赤なす党に対して連立離脱もちらつかせながら統制改革の部分的な緩和を要求しはじめたのである。きよなすはこの動きに対して突然の議会解散・総選挙を以て対応し、赤なす党の議会単独過半数独占を目指す強気な行動に打って出た。しかし、85年1月に施行された総選挙では赤なす党は単独過半数獲得に失敗し、議会はいずれの政党・勢力も過半数をとれないハングパーラメントの状態に陥った。一連の経緯からとまと党は赤なす党との連立を解消したために、赤なす党は政権を維持することができなくなって、同月末に崩壊した。

85年政局と中立内閣(85年~87年)

きよなす政権の崩壊後の2年間、〈なすび王の国〉では赤なす・青なす両党いずれもが安定政権を確保できず、2つの短命内閣と1つの中立内閣によって政治が行われた。この期間の総理大臣および内閣は以下の通り。

総理大臣 期間 与党
なすりゅう 85.1~85.4 青なす党
でるなす 85.4~85.12 赤なす党
なすびんシニア 85.12~87.12 (中立内閣)

85年の総選挙によってハングパーラメントとなった〈なすび議会〉は、きよなすの後継の総理大臣を指名する選挙を行ったが、1回目の投票では過半数をとるものが現れずに決選投票を行うこととなった。この決選投票は、赤なす党の友党であるとまと党などは赤なす党代表に投票することを拒否して棄権したため、議会の少数勢力であった青なす党と葉もの同盟が推すなすりゅう(青なす党党首)が当選者となり、なすりゅう内閣が成立した。しかし、この内閣は「見切り発車内閣」という渾名の通り議会の過半数の支持を得ない少数与党の内閣であったため、他党との連立交渉を妥結させて早期に議会の過半数を確保することが急務であった。だが、なすりゅうは連立交渉に失敗を重ねて同年4月には辞意を表明する。ここで、赤なす・青なす両党は同年12月に再選挙を実施することで合意し、その選挙管理内閣として赤なす党のでるなすによる暫定内閣の成立が実現した。

だが、85年12月に行われた再度の総選挙を経ても議会の議席構成はほぼ変わることがなく、ハングパーラメントを解消することができなかった。そこで、同月にもろこし州州都・もろもろにて開かれた全政党の代表者が集まった会議(もろもろ会議)にて、2年の時限付き内閣の設置・同内閣の中立化・その間の政党同士による政治抗争停止の紳士協定という3つの取り決めを定めた〈もろもろの妥協〉が結ばれた。この妥協によって、各政党は2年間の間に本格政権成立を目指した準備を行うことが決められた。この中立内閣の首班には、紫なすびのなすびんシニアが選出され、全党派協力体制による期間限定内閣が成立した。なすびんシニア政権は、〈もろもろの妥協〉によって新規の政策を行うことが禁止され、緊急的・日常的な政務のみを行う内閣とされた。

なすびんシニア政権の2年間で、各政党は十分な時間を確保したことから綿密な連立協議と党組織の拡充に全力を挙げることとなった。しかしこの勢力拡大レースは、青なす党よりも組織力で勝る赤なす党が常に一歩リードする展開となり、86年に結ばれた赤色系やさいの政党による連立合意によって赤色やさい連合が成立すると、次期総選挙の趨勢は事実上決した。赤なす党勢力はきよなす政権時代から方針を大きく転換して新自由主義的な小さな政府という新しい国家像を示したのに対し、青なす党勢力は従来通りの福祉国家路線を捨て去ることができなかったことも、こうした赤なす党優勢の状況に拍車をかけた。87年の総選挙では、赤色系やさい連合は議会の2/3を占める歴史的圧勝を果たし、時代は赤なす党一党単独優位体制となる第三期赤なす党政権へと移る。

第三期赤なす党政権(87年~95年)

第三期赤なす党政権は、87年のエアロナスルン政権発足から95年の〈王太子のクーデター〉成立までの8年間続いた。赤青二大政党制最後の政権である。また、この政権下の90年7月にはなすごん6世が新国王に即位した。この期間の総理大臣および内閣は以下の通り。

総理大臣 期間 与党
エアロナスルン 87.12~93.9 赤色系やさい連合
なすごろう 93.9~95.5 赤色系やさい連合

87年の総選挙で政権を樹立したのは、赤なす党のエアロナスルンであった。エアロナスルンは、きよなす政権時代の赤なす党のイメージを払拭すべく「自由・開放・発展」という新たなスローガンを前面に掲げ、新自由主義政策を政権の新たな柱に据えた。エアロナスルン政権は議会の圧倒的多数という政権基盤を背景にして、89年運輸事業法・89年交通インフラ法・90年港湾法・92年産業省再編法などの諸改革を断行していった。いずれも中心になっているのは経済であり、規制改革・民間需要の喚起・経済の自由化などがテーマとなった。こうした自由な気風の政策は国民の支持を強く受け、エアロナスルン政権はその在任中に総選挙で連戦連勝を重ねた。だが、新自由主義経済の浸透に伴って国内では社会階級間の経済格差が深刻化した。青なす党の支持基盤である中・低所得者層は新自由主義経済の恩恵をわずかにしか受けられず、他方で資本家・地主階級は多くの経済的恩恵を受けた。この事実は社会階級間の対立感情を悪化させ、特に中・低所得者階級の反政府感情を醸成する原因となった。

エアロナスルンが93年に引退すると、後継の総理大臣に就いたなすごろうも新自由主義政策を引き継いで資本家・地主階級を優遇する態度を崩さなかった。なすごろう自身は青なすびを中心とする労働者階級に対して一定の配慮を見せようとしていたが、エアロナスルンを中心とする党内タカ派の影響でそうした配慮は骨抜きにされ、こうした傾向は94年の税制改革で端的に表現された。この税制改革は資本家・地主階級は厚遇される一方、中・低所得者階級は事実上の負担増を求められるものであった。このような各社会階級を狙い撃ちしたような政策は中・低所得者階級の猛烈な反発を呼び、95年5月に開かれたメーデーでは政府に対する不満を叫ぶ青なすびを中心とする参加者が大規模な反政府デモを全国で展開する事態に陥った(〈青なす党のなが~いメーデー〉)。政府は、デモの参加者が一部で暴徒化したことを受けて戒厳令の発布を宣言し、武力を以てデモを鎮圧する方針を表明したが、これがデモ参加者のさらなる反発を呼び、軍とデモ隊の武力衝突が現実となったことで事態は収取のつかない状態になっていく。

こうした中、状況は急転直下で収束する。首都・なすごんにて、王太子・なすひこによるクーデターが起こったためである。王太子は水面下でとまと党などと連携して近衛兵を動員し、「国民に銃を向けた罪」を理由にして国王・政府要人を次々に逮捕、拘束した。直後に、王太子は国民向けの演説でたたかいをやめるように呼びかけ、次いで現国王・なすごん6世の退位と自身の国王践祚・新憲法制定議会の設置・暫定政府の設立などを発表した。この、いわゆる〈王太子のクーデター〉によって〈第二憲法〉は事実上停止され、とまと大臣を首班とする暫定政府の下で、なすごろう政権は赤なす党と青なす党を中心とする政治体制そのものとともに解体された。この政変により赤青二大政党制は終焉し、時代は〈憲法制定議会期〉を経て〈第三憲政〉へと移ることとなる。

脚注

  1. その後成立した諸政党のいずれもが、民族ごとのつながりで結成されたものであった。
  2. 現行の超然的専制政治体制を緩和するための議会政治創設などに寛容な一部の貴族勢力。
  3. 〈なすび王の国〉の歴史における「憲政時代」は、広義には〈第一憲法〉の施行以降を、狭義には〈第二憲法〉の施行以降を指す。
  4. 当時の新聞による世論調査でも、政党支持率は赤なす党の16%に対して青なす党は45%を記録していた。
  5. この期間は、赤なす党のビッグ・なすが第一次内閣を組織していた。
  6. 特に、①43年王権関連三法(国王および王室に関する法整備)、②50年政党法と50年普通選挙法(政党内閣政治に関する法整備)、③54年廃公令(身分制度改革)、④43年労働基本法と52年民生基本法(社会保障改革)の法制化が挙げられる。
  7. ビッグ・なすは、従来の保守派の主張の柱であった「王権擁護・身分制度尊重」の方針を大転換し、「経済成長路線・財界重視」の方針を主張した。
  8. 閣僚名簿の完成に1ヶ月を要するという混乱ぶりであった。
  9. なすとるが「〈第二憲法〉体制完成の最後の一手」とまで主張した内務省改革が頓挫した事件。強大な権力を握る内務省の弱体化をねらったが、内務省の猛烈な巻き返しを受けて政権が混乱し、結果的にはなすとる政権崩壊のきっかけとなってしまった。
  10. 赤なす党・とまと党・にんじん党。
  11. ビッグ・なすは第一次ビッグ・なす政権崩壊後に一度は党首を辞任したものの、党内最大派閥を率いて実質的な赤なす党のオーナーとして権力をふるい、57年10月には党首職に復帰していた。
  12. 30年代、党創建当時の青なす党のスローガン。
  13. 介護保険法・労働保険法・福祉保険財源特例法の三法の総称。
  14. この4ヶ月後になすろうは亡くなった。
  15. これには、元々なすろう政権の支持率がなすろう個人の人気に支えられていたということも大きく影響している。また、支持率漸減の兆候はなすろう政権時代の末期にはすでに表れはじめていた。
  16. ただし、この事件については陰謀説を唱える意見が後を絶たない。赤なす党がだいこん党を罠にはめたであるとか、その後の裁判で関係者の証言が激しく食い違う場面が見られたことから黒幕が存在するなどといった説が数多く唱えられている。

関連項目

なすび王の国
〈なすび王の国〉の政治