「【とんちき坊やといるか島の国】」の版間の差分

 
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'''文左衛門'''
'''文左衛門'''
<br/>いぬ族の政治家を統率する派閥の領袖。作中では、かえる族の領袖・喜久麿との和睦・〈ワンケロ講堂の和睦〉を成立させた。
<br/>いぬ族の政治家を統率する派閥の領袖。作中では、かえる族の領袖・喜久麿との和睦(〈ワンケロ講堂の和睦〉)を成立させた。
政界を裏から支配する「いぬ族のドン」と呼ばれる存在であったが、オオサンショウウオ政権の成立以降は在野の実力者に甘んじていた。オオサンショウウオ大臣が、偶発的に発生した政変(農園門の変)に乗じて戒厳令を発したことを利用し、どさくさに紛れて政権奪還を企図したかえる族との和睦に乗り出した。
政界を裏から支配する「いぬ族のドン」と呼ばれる存在であったが、オオサンショウウオ政権の成立以降は在野の実力者に甘んじていた。オオサンショウウオ大臣が、偶発的に発生した政変(農園門の変)に乗じて戒厳令を発したことを利用し、どさくさに紛れて政権奪還を企図したかえる族との和睦に乗り出した。


その後、文左衛門はかえる族との連携によってオオサンショウウオ政権を退陣に追い込んだ立役者となったが、自らは影の首相として裏から政治を支配する道を選び、自身子飼いのポチベエを後継首相に推薦した。
その後、文左衛門はかえる族との連携によってオオサンショウウオ政権を退陣に追い込んだ立役者となったが、自らは影の首相として裏から政治を支配する道を選び、自身子飼いのポチベエを後継首相に推薦した。


'''喜久麿'''
'''喜之丸'''
<br/>かえる派の領袖。文左衛門の要請に応え、いぬ族との歴史的な和睦を実現した。
<br/>かえる派の領袖。文左衛門の要請に応え、いぬ族との歴史的な和睦を実現した。
〈いるか島の国〉では当時徐々にかえる族の人口比率が減少しており、喜久麿はかえる族の影響力の確保をいかに成すかを悩んでいたが、そこへ文左衛門からの和睦の申し出があったことでいぬ族との同盟に活路を見出し、和睦を決断するに至る。
〈いるか島の国〉では当時徐々にかえる族の人口比率が減少しており、喜久麿はかえる族の影響力の確保をいかに成すかを悩んでいたが、そこへ文左衛門からの和睦の申し出があったことでいぬ族との同盟に活路を見出し、和睦を決断するに至る。
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==作中の出来事==
==作中の出来事==
===農園門の変===
===農園門の変===
とんちきとろんが〈いるか島の国〉にやってきた最初の夜に遭遇した、いぬ族の派閥とかえる族の派閥の兵士同士による偶発的な武力衝突。実際にはただの些細なケンカであったのだが、かえる族といぬ族の影響力を落としたいオオサンショウウオ大臣がこのケンカの発生をあえて大事の様に発表し、無理矢理に戒厳令発令の根拠としてしまった。戒厳令発令のねらいは、いぬ族とかえる族の排除である。
とんちきとろんが〈いるか島の国〉にやってきた最初の夜に遭遇した、いぬ族の派閥とかえる族の派閥の兵士同士による偶発的な武力衝突。
 
実際にはただの些細なケンカであったのだが、かえる族といぬ族の影響力を落としたいオオサンショウウオ大臣がこのケンカの発生をあえて大事の様に発表し、無理矢理に戒厳令発令の根拠としてしまった。戒厳令発令のねらいは、いぬ族とかえる族の排除である。


===ワンケロ講堂の和睦===
===ワンケロ講堂の和睦===
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===オオサンショウウオ大臣の失脚===
===オオサンショウウオ大臣の失脚===
ワンケロ講堂の和睦によって議会を掌握したかえる族といぬ族の同盟は、臨時招集された議会においてオオサンショウウオ大臣の戒厳令発令に対する内乱罪の適用を可決した。これにより、政権の法的正当性は失われてオオサンショウウオ大臣は更迭された。それから間もなく、オオサンショウウオ大臣は憲兵によって逮捕され、名実ともに失脚する。
ワンケロ講堂の和睦によって議会を掌握したかえる族といぬ族の同盟は、臨時招集された議会においてオオサンショウウオ大臣の戒厳令発令に対する内乱罪の適用を可決した。これにより、政権の法的正当性は失われてオオサンショウウオ大臣は更迭された。それから間もなく、オオサンショウウオ大臣は憲兵によって逮捕され、名実ともに失脚する。
以上の流れは、ワンケロ講堂の和睦からわずかに数時間の間に実行に移された。さらに、オオサンショウウオ大臣の逮捕は、直前になってオオサンショウウオ邸周辺の住民に告知されたために、歴史的瞬間を目撃しようと集まった群衆に囲まれる形で大々的に行われた。これらの一連のいぬ族・かえる族同盟の動きは、翌日の新聞の朝刊にも「電光石火」と形容されるほど鮮やかなものであったが、一方でそのあまりの手際に良さから「すべて(農園門の変以降の政局全般)は文左衛門の策略だったのでは」という疑惑も生まれた。
以上の流れは、ワンケロ講堂の和睦からわずかに数時間の間に実行に移された。さらに、オオサンショウウオ大臣の逮捕は、直前になってオオサンショウウオ邸周辺の住民に告知されたために、歴史的瞬間を目撃しようと集まった群衆に囲まれる形で大々的に行われた。これらの一連のいぬ族・かえる族同盟の動きは、翌日の新聞の朝刊にも「電光石火」と形容されるほど鮮やかなものであったが、一方でそのあまりの手際に良さから「すべて(農園門の変以降の政局全般)は文左衛門の策略だったのでは」という疑惑も生まれた。
このオオサンショウウオ大臣の失脚後、後継首相にはいぬ族のポチベエが就任し、オオサンショウウオ一派に代わっていぬ族・かえる族の同盟が主流派となる新政権が誕生した。
このオオサンショウウオ大臣の失脚後、後継首相にはいぬ族のポチベエが就任し、オオサンショウウオ一派に代わっていぬ族・かえる族の同盟が主流派となる新政権が誕生した。


==関連項目==
==関連項目==
[[【とんちき坊やとまぬけのろんシリーズ】]]
[[【とんちき坊やとまぬけのろんシリーズ】]]